読書道楽

「蔵の中から」江戸川乱歩講談社文庫)

乱歩の評論、随筆集であり興味津々の面白さである。前田河広一郎という評論家に反駁している文が最初に来ている。この評論家は、プロレタリア文学の評論家らしく、「支配者階級が被支配者階級を圧伏する法の権威が、全ての探偵ものの底に、無条件なるアプリオリ的存在として認められている・・・」などという阿呆な評論を書いたらしい。何か尤もらしいおどろおどろしい、それこそ権威主義的な、一見学問的な言葉を羅列しての無内容の文である。こんなものはほっとけば良いのであり、「このような論は一理あるとも言えるが・・・」などと言って阿ってはいけないのである。実際乱歩は、「変な見方もある」、「プロレタリア文学というのは推理小説さえもブルジョア擁護の文学として目の敵にしなければならないのであろうか。」などと言って軽く流しているのである。この評論が出たのが「新潮」という有名雑誌で、それは大正14年のことである。その頃にはいわゆるプロレタリア文学の傾向というのが知識人とかインテリ気取りの人々に蔓延していた頃なのであろう。それに乱歩のようにごく常識的に反応するのは非常に難しいことなのだと思う。学生運動華やかなりし頃には、時のインテリはまずは学生に理解を示しているとの表明をしてからものを言ったもである。大正14年当時のプロレタリア文学華やかなりし雰囲気の中、このような阿呆な評論もまかり通ったのであろう。思えば、終戦後の日本語破壊勢力の華やかなりし頃、「狼狽という字に突き当たって、狼がどうしたのだろうと迷った。そこで、私は、日本語も表音手技でいかなければならないと思った・・・」といって、それを売り物にして表音主義を説いて回った人がいることを福田恒有の本で知った。こんな馬鹿な論も、当時の表音主義者華やかなりし頃にはもてはやされたのであろう。このような時代の流行に煩わせられないで正論を言えるというのは大したものなのである。「文学上のラジューム」との文では、単文ながらポーの特異性をを良く理解し、わかりやすく記述している。エラリー・クイーンの「Yの悲劇」序では、言葉を極めてこの傑作を賛嘆している。賛嘆しているその内容が、まるで私自身がやはりこれを読んで感動した、あの純情だった中学1年生の時の心をそのまま書いているように思われた。まるで、私が読後直ちに興奮のままに来た文章のような気になった。乱歩の気持ちをぴったりである。この文でその事に多いに感動した。乱歩も最後まで犯人は分からなかったようである。犯人の意外性は、まさに宇宙的衝撃である。