読書道楽

「余暇と祝祭」ヨゼフ・ビーバー(講談社学術文庫

この著者は、余暇論の権威ということであるが、要するにキリスト教の信仰を持った哲学者である。従って、単に今の世の中は豊で余裕も出来たから、その余裕をどのように過ごしたら良いか、そのための理屈を紹介しましょうというような話で無いことは当然のことだったのである。この著者における「余暇」の概念は、人間が全てを虚しくして神において真の自分を見いだそうというような意味合いが含まれている言葉なのであり、私たちが普段使うこの言葉から連想する事柄とは一致しない。「余暇」という言葉で、我々は仕事の無い暇な時間との意味合いがまず浮かぶ。しかし、この本では、「余暇の本質の中核は祝祭にある」というのである。即ち、神において全てを肯定して自分をなげうち、虚しくなって祈ることが余暇の本質であるということになる。特に感激したのは、中世では、働きずくめでいることは、真の自分を得ようとしていない怠惰な態度とみられていたということである。自分が真の自分でないから、いつも不安であり、不安であるから、それを紛らすために更に一生懸命働かなければならないという情けない状態を怠惰といっていたということである。今の仕事マンには耳の痛い話であるはずであるが、現代の労働の枠組みの中に入り込んである人々はこんな指摘には耳を貸さないであろう。「そんな非生産的なことをいってどうなるか」というようなものである。しかしながら、猛烈社員が仕事がなくなって途端に惨めになるのは、表面的には仕事をして忙しく、それなりに評価されていたときにもやはり惨めであったということなのである。何かの役に立っていたという観点から、その機能価値が有用であった限りにおいて価値があったというだけなのである。しかしながら、人間がこの肉身を持って地上で生きているということは、神なり久遠本佛なりの至上者がそれを肯ったからであり、それを祈りを捧げることによって観想し、実感することによってしか真の生きがいは出てこない。その観想する時間は、社会的に有用な機能価値を行う労働とは根本的に違った時間であり、その時間を持つことをしないのは怠惰だということになる。その時間を持って初めて労働も真の価値を見いだすことが出来るということでもあるのだろう。