子供に関する随想

 いま小生は,小学校6年になる孫と5才になる孫の可愛さに夢中なのであるが,その父親である我が息子が中学から高校に上がるころに息子に関して書いた文が出てきた。読むと何か子を思う親の切なさがまた蘇ってきた感じである。以下のその時の文を記す。

                子供考

 冷静に考えればどうでも良いことでもとても気になり、あるときはイライラし、腹立たしくなることもあるが、基本的には可愛くて可愛くて堪らず、この命が助かるためなら自分の命も惜しくないと思うものなーんだ。それは子供である。そうです。子供です。私にも昭和51年1月9日に、正当な婚姻関係から生まれた玉のような男の子がいる。自分で言うのも何だが、幼いときは本当に可愛い子で、かなり過保護気味に育ててきたのであるが、今や、高校2年生となって、私よりも大きくなり、エックスというヘビメタバンドの大ファンになったりして、色々と私を戸惑わせるようになっている。現在では、町を歩いていて、よちよちと親の手を取って歩いている子供を見ると思わずほほえましくなって我が子も手を引いて連れ歩いていたときがあったのだなーとの懐かしい感慨のとらわれる一方、あの時はもう2度と戻ってこないのだとの、寂しさというか、ある種の名状しがたい無常感にとらわれるのである。そういうわけで、幼き頃と隔たった我が子ではあるのであるが、やはり今でも、幼き頃のイメージをダブらせてしまう親心の切なさよ。思えば、身近な神話のサンタクロースのロマンを子供にも信じさせようとした。そして松山赴任時代には、私が左手でサンタクロースからの手紙なるものを書いてプレゼントとともに枕元に置いていた。子供が小学2年生に上がるときに名古屋に転勤となったのであるが、名古屋の同級生はさすがにしっかりしている。しかしやはり子供である。我が子と同級生とのサンタクロースを巡る会話を再現して見ると次のようになる。

 我が 子 

   「サンタクロースって本当にいるんよ」

 名古屋の子

  「サンタクロースなんていにぁーが。あれはな、親がプレゼントを買っているんだ

   がなー」    

  我が子

  「本当にいるんよ。だって松山にいるときにちゃんとサンタさんからお手紙が来た

   もん」

 名古屋の子

  「そうかー。そりゃなー、松山にはいるかもしれんけど、名古屋にはいないだ。」というわけで、名古屋にはいないけれども、松山にはいるかもしれないことになったサンタは 名古屋でも出現し、さらに私の転勤に伴って京都にも出現し、我が子の枕元に手紙とともにプレゼントを届け続けたのである。京都ではワープロを購入したので、サンタクロースの手紙も夜にこっそりとワープロで打ったものになり、子供には「サンタのおじさんも、ワープロでお手紙を書くようになったんだね」とわざとらしいことを言っていた。そもそもワープロを買ったのは小学3年から子供が結構面白い話を色々と書くので親馬鹿からそれをワープロで打って本に仕立ててあげようとしてであった。例えば小学3年の時のものであるが、こんなナンセンスな文章を書いていた。

     題 なまぬるい

「ある日、たかしがみんなと、あそびに行こうかと思って行ったら、外がなまぬるいかんじがした。たかしが、ふろに入ろうとしたら、おゆがなまぬるかった。ふとんに入ったら、ふとんの中がなまぬるかった。おきてみたら、おしりのへんがなまぬるかった。見てみるとねしょんべんだった。どれもこれもなまぬるい。ーおしまい」

 さてそれでであるが。そのワープロに打ったサンタの手紙なるものを消し忘れたままでいたところ、我が子がワープロを触るところとなり、初期画面にもろにサンタの手紙がでてきたわけである。我が子は、「あっ。サンタさんの手紙だ。やっぱりお父さんがサンタさんなんだ」と言って追及してきた。「いや。ワープロの練習にサンタさんの手紙を真似して打っていたんだよ」などと四苦八苦して誤魔化し、急場をしのいだのであるが、まーこのことで女房の怒るまいことか。「仕事でもこんなへましてるんでしょ」などとまでいうのである。「そのようだ」というのも悔しので「仕事はちゃんとやっている」などと力なく反論したりしてまー大変でした。しかし、そのうちにさすがに常識的な意味においてサンタクロースがプレゼントを運んでくることが現実のことなのかわわかってくるわけで、もう限界かなと思われた小学6年からは、「サンタのこと信じなくなったからサンタが寂しがるのでこれからはお父さんがサンタに代わってプレゼントを運ぶことにするから」と言っているのである。その後中学1年くらいまではまだ体つきもふっくらとした子供のころの可愛さを保っていたのであるが、中学2年から高校生にかけての身体的な成長の速度はかなりのものであり、あっという間に中2年の時には女房を、中学3年の時には私の背を追い越して、ごつごつと筋肉質の大人のからだつきになっていったのである。しかし、それに対しての親の対応等はまだ可愛かった時の幼い時のイメージでなにかと接することになるわけで、そこのところでどうも齟齬をきたして反抗期ということになるのであろう。もはや中学2年から高校にかけての子供はそれまでの可愛かった子供とは違うのである。自分がどれだけそのころに生意気になっていったかを思い出せばいいのであるが、逆の立場となるとそうはいかない人間の浅墓さである。中学2年からはドライヤーを使い始めた。そもそも私は今でもドライヤーなどは使っていないのである。毎朝ドライヤーを当てながら髪をいじくる息子の姿を見るとムカーっとしてしまうのである。大体卑しくも男と生まれたものが、ドライヤーで髪をいじくるなどという女々しいことをしてはいかん、私が中学高校の時は髪などはボサボサのまま、下駄ばきで学校に行ったものだ、などといったのであるが、こともなげに「それはお父さんの時はそれがおしゃれだったんじゃないの。今は違うんだよ」などと一蹴され、なるほどとこちらも思ったりして、今はなんとかそんなもんだと思えるようになっている。この種のことが他にも色々あるのであるが、ここらが親の修行を要するところである。これも自分の当時のことを思い出してみればいいのである。大体その頃の自分の思い出があるので、結婚当初は、子供は女の子がいい、どうも男の子は年頃になると不潔になっていやだなどと言っていたこともあるのである。しかし、そんなことはないのである。こどもは男女ともに無条件に可愛いのである。中学3年のある時、なかなか昼寝から覚めない我が子を起こしたことがあった。そのとき我が子は、「あー今ちょうど夢みていたとこだった」というので、どんな夢だったと聞いたところ、「塾の帰りにパチンコ玉を拾って近くのパチンコ屋でパチンコをしたら、じゃんじゃん出たので、箱に一杯にして換金所に行ったらそこに座っているのがお父さんだった。『何やっている』と聞かれたので事情を言ったら、『馬鹿もん。もっと出してからもってこい』と言われたのでまたパチンコ屋に戻ってじゃんじゃん出しているときにお父さんに起こされた」というのである。それで笑ってしまったのであるが、待てよ、換金所の存在などをどうして知っているのだ、少なくとも私は教えていないぞ、どうして知ったのだなどと一応の心配はしてみるのである。要するに親の知らない間に子供は色々と世間のことを知っていっているのである。その子も高校生となり、いよいよ背丈も大きくなり今では若干見上げるようにしないと視線が合わなくなってきているのである。しかし、やはりどうしても幼かったころの可愛さをどこか忘れられず、その時のイメージを持ったまま接する態度がどうも抜けないのである。ここは、いよいよ一人前の大人として理性的に接するようにしなければならないと思いつつ,やはり、可愛いなー、というのが結局子供というものなのか。これから大学受験が待っている。卒業したならどんな仕事に就くのか知らないが、勤めれば、周りは優しい人だけではない。中には特段に厳しい人と働かなくてはいけないこともあろう。これから子供が経験するだろうそれら様々のことを思うと、なんとも大変だなーという思いに捉われるのである。そしてそんな苦労を何とか親として代わってやりたいとも思うであるが、そんなことはできない相談である。この可愛かった子供がこれからいろんな苦労をしなくてはならないことの哀れさと、それを親として代わってあげたいとも思うけれども、それをしてやれないもどかしさを含めたものとして、私の故郷の仙台では「この子を見てると『むずこい』」との言い方をしているのである。まさに我が子を見ているとむずこくてたまらないのである。よく仙台の母も私を見ては「むずこい」と言っていたがその気持ちがよく分かる今日この頃である。もっともむずこがられたこの私のついてみるに、和して同ぜず。外柔内剛、面従腹背等のあらゆる手を使っては、結局マイペースで毎日を図々しく生きている訳で、親が思うほどのことはないのかもしれない。しかし、親子の間はもともと運命的な関係であり、いつまでたっても思案の外の感情で結ばれているものなのだなと思うのである。